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福岡高等裁判所 昭和52年(う)291号 判決 1983年9月07日

被告人 山田荒喜 ほか一人

主文

原判決を破棄する。

被告人両名はいずれも無罪。

理由

本件各控訴の趣意は、被告人両名の弁護人安田弘が差し出した控訴趣意書に記載されたとおりであり、これらに対する答弁は検察官棚町祥吉が差し出した答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用し、これらに対し次のとおり判断する。

控訴趣意第一及び第二について

所論は要するに、原判決は、原判示地滑り事故の原因につき、昭和四四年六月の西日本梅雨前線降雨により、盛土下層部に限界以上の水量を停滞させ、盛土と地肌との分離を促し、盛土の重圧も加わつて、遂に、同月二九日午前一一時ころ、崩壊性地滑りを起こすに至らせたと認定したが、右は誤認である。右地滑り事故の原因は、盛土基岩に発達した破砕帯を通して盛土下に噴出した脈状地下水にあつて、天災である。そのことは原審鑑定人田中茂作成の鑑定書及び田中茂作成の補充鑑定書と題する書面により明らかであり、これに反し原判決が証拠とする原審鑑定人伊勢田哲也作成の鑑定書及び伊勢田哲也作成の補充鑑定書と題する書面は信用性がないのに、原判決は同鑑定書及び同補充鑑定書と題する書面を措信して、右の点を積極に認定するものである。従つて、原判決は証拠の評価又は取捨選択を誤り、事実を誤認したものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

そこで、検討するに、記録によれば、被告人両名に対する本件公訴事実は、

「第一 被告人山田荒喜は、昭和四〇年一一月一日から同四二年四月一日まで、長崎県住宅供給公社事務局次長(技術担当)兼滑石団地開発事務所長として、滑石団地指定宅地造成工事規制区域内における造成工事、建築工事ならびに墓地造成等に関する調整、設計、施工、監督、検査、施工後の維持管理などの業務に従事したものであるが、昭和四一年五月一六日、同公社が右指定区域内である長崎市滑石町一四九二番地の一に、昭和四一年度宅造一号滑石団地第一共同墓地造成工事(セコ式)を施工するにあたり、同事務所職員谷口朝雄に命じて設計図書を作成させ、同工事を請負つた株式会社植田建設(代表者植田氏人)を指揮監督して同工事を施工し、同年八月一〇日これを竣工させたが、右工事は、後記被害者らが既に購入して家屋を建設する予定であつた宅地の二二・五メートル上方の高台を切り開き、墓地(面積二、五四八・五平方メートル)、駐車場(面積三七六・〇一平方メートル)、取付道路(面積六九二・九九平方メートル)を造成するもので、切土や盛土をして造成工事をしなければならず、右工事施工の際、駐車場ならびに取付道路は、前記墓地の北側から約二五度の傾斜で下降していた地肌の上に、整地の際生じた切土約一、六〇〇立方メートルを約五メートルの高さに盛土をして造成するため、これに伴い右駐車場北側崖から崖裾にかけて、水平距離二二・五メートル、巾員二五・七メートル、斜面の長さ四二・五メートルにわたり約三五度の勾配の崖を築造したが、このように長い法面に大量の盛土をする場合には、地肌層と盛土層とが馴染まないので、浸透した雨水および地下水が盛土下層部に滞水して地肌と盛土との剥離を促し、地すべりを起こすおそれがあつて危険であるから、安全を期するため、あらかじめ土質、後背地の集雨量ならびに右崖の部分の地下水等の流れの状態等を調査し、これに応じ、地下水流を通水するため蛇籠を設けるなどの適切な排水の装置を講じると共に、土木工学の基準にそう土圧に十分堪え得るコンクリート擁壁、もしくはPC杭を崖の要所に設置するなど、有効適切な工法をとつて盛土の崩落を防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、すべり防止の方策として、右駐車場北側法肩下崖に巾約三七・五メートルにわたり表面積約一一〇平方メートルの擁壁(ねり石積)を築造したのみで、しかもこれにつき、擁壁の強度の計算もせず、且つ、右工事を請負つた植田建設の現場監督田原万亀男から、崖の中央部約一四メートルが谷地形でくぼみがあるため右設計の擁壁面積量と現場は不相応であり、設計のとおり施工するときは空間を生じて危険であるから約六〇平方メートル石積面積を増加するよう設計変更方の申入れがあつたにもかかわらず、これを認めず、右擁壁の中央部分の下部を地肌に根入れせず、胴木をその下部にあてがつたのみでその下方に立杭を打ち込むなどの基礎固めをしないまま築造させたのみならず、土質及び集雨量、地下水流等については何らの考慮を払わず、僅かに右擁壁に三平方メートルにつき一本の割合で排水孔を設けたに止まり、大量の盛土崩壊に対処する事故防止の安全処置を講じることなく工事を了し、

第二 被告人吉川巖は、昭和四二年四月一日長崎県住宅供給公社技術部長兼滑石団地事務所長に就任し、前記山田荒喜と同様な業務に従事していたものであるが、同年六月ころ、前記駐車場北側の路面から法肩下ならびに擁壁の石積部分表面にかけて多数の亀裂が生じたのを認めたが、同被告人は、同所は前記の如く谷地形のくぼ地に大量の盛土をして造成した事実を知悉しているのであるから、右亀裂の原因を調査し、これに応じ崩壊を防止するため十分な補修工事をなすべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、自然沈下であると軽信してその原因を調査することなく、その亀裂部分を手直し修理するに止めたうえ、そのころ、右駐車場北側崖下付近の居住者から前記墓地の側溝の整備等の申入れがあつたところから、昭和四二年度宅造第四号滑石団地墓地一部補修工事として、同事務所職員東島房次に命じ同工事設計図書を作成させ、これに基づき、有限会社橘建設に請負わせて、これを同年九月一六日着工し同年一〇月一〇日竣工させたが、右側溝を設けるにあたり、表面水の排除のみを考えて盛土部分に浸透する地下水等の排除に何らの考慮も払わず、適切な排水装置を設けなかつたのみならず、前記駐車場北側の法表土の流出防止の目的で、右崖の裾部に巾一二・六メートル、高さ一・五メートル、面積一八・九平方メートルの擁壁(ねり石積)を築造したが、右擁壁の築造の結果前記駐車場付近から崖裾にかけての盛土の内部を通行する地下水等の水路を閉塞することがあるのであるから、あらかじめ土質、地下水位の状態などの事前調査をし、有効な排水装置を設けるなどして盛土底部の滞水の排除につとめ、危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、土質、地下水位を調査することなく、わずかに三平方メートルに一本の割合で排水孔を設けた右擁壁を築造して地下水の流通を阻害したうえ、右工事完成後、後記峯蔦子から、同四三年の梅雨時に二回にわたり右崖裾からの出水で自家に床下浸水し、崖が危険である旨の陳情を受け、同事務所職員生月末夫をさし向けながらその原因の調査もせず、危険防止のための処置をとらずに放置し、

右のとおりの被告人両名の業務上の注意義務を怠つた工事の施工に基因し、昭和四四年六月の西日本梅雨前線降雨により、右盛土下層部に限界以上の水量を停滞させて地肌との分離を促し、遂に同月二九日午前一一時ころ崩壊性地すべりを起こすに至らせ、約五四〇立方メートルの流出土量により崖下に居住していた峯恭輔方木造二階建住居一棟を埋没させ、よつて同家階下にいた峯恭輔(当四四年)、同長女悦子(当一八年)、同三女久美子(当一〇年)を圧死させ、同妻蔦子(当四二年)に対し全治約三週間を要する両下肢並左上腕打撲の傷害を負わせたものである。」

というものであり、これに対し、原判決は、被告人吉川に対する公訴事実について、昭和四二年度宅造第四号滑石団地墓地一部補修工事、崖裾部擁壁築造及び昭和四三年の梅雨時における右崖裾出水に関する事実を認定しなかつたほかは、ほぼ公訴事実にそう事実を認定したことが明らかである。

よつて、所論にかんがみ、先ず「昭和四四年六月の西日本梅雨前線降雨により、盛土下層部に限界以上の水量を停滞させ、盛土と地肌との分離を促し、盛土の重圧も加わつて、遂に、同月二九日午前一一時ころ、崩壊性地滑りを起こすに至らせた」という、本件事故の因果関係に関する原判決の有罪理由の当否を案ずるに、本件崖の崩落原因に関し、原判決の挙示する関係証拠によれば、

1  被告人山田荒喜は、昭和三六年六月以後長崎県土木部住宅課長補佐から当時の長崎県住宅協会事務局次長(技術担当)に出向中、昭和三九年長崎市滑石地区に住宅団地を開発するため同協会滑石団地開発事務所が開設されるやその初代所長を兼務し、昭和四〇年一一月一日右住宅協会が組織変更され長崎県住宅供給公社となつた後も昭和四二年四月一日まで、同公社事務局次長(技術担当)兼滑石団地開発事務所長として、滑石団地指定宅地造成工事規制区域内における造成工事、建築工事並びに墓地造成等に関する調整、設計、施工、監督、検査、施工後の造成地、工作物等の維持管理などの業務に従事していたものであるが、昭和四一年五月一六日、同公社が右指定区域内である長崎市滑石町一四九二番地の一に、昭和四一年宅造一号滑石団地第一共同墓地造成工事を施工するにあたり、同事務所職員谷口朝雄に命じて右工事の設計図書を作成させ、同工事を請け負つた株式会社植田建設等を指揮監督して同工事を施工し、同年八月一〇日これを竣工させたこと、

2  右工事は、後記被害者らが既に購入して家屋を建設する予定であつた造成済の宅地に南隣する勾配約三〇度の自然斜面の更に南隣にあつて、右宅地の二十数メートル上方の高台を切り開き、大規模な切土(総量四、八七三立方メートル)、盛土をして墓地(面積二、五四八・五五平方メートル)、駐車場(面積三七六・〇一平方メートル)、取付道路(面積六九二・九九平方メートル)を造成したものであるが、右駐車場及び取付道路は右自然斜面の上に整地の際生じた右切土のうち約一、六〇〇立方メートルを最高約五メートルの高さに盛土して造成し、これに伴い右駐車場北側崖(法肩)から崖裾にかけて、高さ約二二メートル、幅員約二五メートル、斜面の長さ約四二メートルにわたり、勾配約三五度の崖を築造し、右法肩より法斜面にそつて約五・六ないし八・六メートル下方の範囲に、幅約三七・五メートルにわたり、表面積約一一〇平方メートルのねり石積の擁壁(以下、「上段擁壁」という。)を築造したものであつたこと、

3  被告人吉川巖は、昭和四二年四月一日、被告人山田の後任として長崎県住宅供給公社事務局次長(後に職制改組のため技術部長となる)兼滑石団地開発事務所長に就任し、昭和四三年一二月三一日右事務所が閉鎖されるまで被告人山田と同様の前記業務に従事していたものであるが、昭和四二年四月七日ころ、同月初めの降雨を受けて、前記駐車場北側の路面上の法肩から約一メートル南方までの個所に幅約数センチメートル、長さ約一〇メートルの亀裂が生じたほか、右法肩下にも亀裂が生じ、更にその下の上段擁壁にもその天端から約一メートル下方において横に長さ約一〇メートルにわたり、石垣の継ぎ目部分に幅約一センチメートルの亀裂が生ずるなどしていたのを報告により知り、部下職員らとともに現地を見分し、前記墓地造成工事請負契約の保証人であつた株式会社山本組をして東洋開発に下請けさせ右亀裂部分の補修工事を行わせ、同年一〇月ころには、右公社から有限会社橘建設に請け負わせて、前記崖裾において横に長さ約一二・六メートル、高さ約一・五メートル、表面積約一八・九平方メートルの、擁壁の裏に地面近くまで達するかなりの栗石層を設けた、ねり石積の擁壁(以下、「下段擁壁」という。)を築造したこと、

4  本件崖は凹状の等高線を有する浅い谷状地形の斜面であつたこと、

5  雨がかなり降つた場合は本件崖の両側及び中央部分に表流水が流れてくることが多く、殊に、昭和四三年六月末から同年七月初めにかけて長雨が降つたときは、後記被害者宅の西南隅の石積擁壁の隙間から多量の水が吹き出て、その水は当初は濁水であつたが、数日経つと濁りのないものが出ていたこと、

6  昭和四四年六月の西日本梅雨前線降雨による同月二五日以降の降雨は、長崎市滑石地区で同月二五日午前二時ころから同月二六日午前零時五〇分ころまでの間に断続的に合計九三ミリを記録し、その後同月二八日午後二時二〇分ころまで中断した後、同時刻から小雨が降り始め、同日午後九時三〇分ころから急に大雨となり、翌二九日午前一一時ころまでに一五八ミリを記録したこと(長崎市滑石町にあつた株式会社奥村組滑石工事事務所が同所に設置した転倒ます型隔測自記雨量計の記録を供述した、中山晴夫の司法警察員に対する供述調書による。なお、長崎海洋気象台長作成の回答書によれば、長崎市南山手町五における右六月二八日午後二時二〇分ころから翌二九日午前一一時ころまでの降雨総量は約一一七・五ミリである。)、

7  本件崖は同年六月の右西日本梅雨前線降雨により同月二九日午前一一時ころ崩壊性地滑りを起こし、上段擁壁は土塊の崩落とともに崩落し、その約五四〇立方メートルの流出土量が崖下に居住していた峯恭輔方木造二階建住居一棟を埋没させ、その結果同家階下にいた峯恭輔(当時四四歳)、その長女悦子(当時一八歳)、その三女久美子(当時一〇歳)が圧死し、その妻蔦子(当時四二歳)が全治三週間を要する両下肢並びに左上腕打撲の傷害を負つたこと、

以上の事実を認めることができ、同事実については当事者間にほぼ争いがないところである。

次に、本件崖の崩落原因に関する原判決の認定にそう証拠としては、原審鑑定人伊勢田哲也作成の鑑定書、伊勢田哲也作成の補充鑑定書と題する書面、証人伊勢田哲也の原審及び当審公判廷における各供述、同証人に対する当裁判所の尋問調書(以下、以上を総称して「伊勢田鑑定」という。)、鎌田泰彦、松本征夫作成の各鑑定書があり、これらの信用性について疑問がもたれるならば、ほかに原判示の右崩落原因を認定するにたりる証拠はない。

そこで、右各鑑定を採用することができるかどうかについて検討する。

右各証拠のうち鎌田泰彦作成の鑑定書は、本件現地付近の地質調査、土質調査、本件崖の谷地形、その中央部に湧水があつたことを参酌し、その総合意見として、「滑石団地A地区付近の地質をつくる凝灰角礫岩は、豪雨によつてもたやすく崩れるようなものではない。しかし、被害地はこの凝灰角礫岩の風化した地表の土砂によつて谷を埋めたことにより、谷中に湧水する地下水により、埋土には常に滞水していたものと考えられる。それが今回の西日本梅雨前線豪雨によつて限度以上の水分を吸収し、土粒子の分離が促進された結果流れ出し、崩壊性地滑りを起こしたものと判断される。すなわち、谷が埋土によつて充填されていなければこのような災害にまで発展しなかつたものと考えられる。」とするものであり、松本征夫作成の鑑定書は、「本件盛土をした材料は、凝灰角礫岩が弱熱水変質を受け、あわせて風化した地表及び地表近くの粘土分を含んだ礫を交えた土砂である。このような材料を谷地形に盛土した場合には次のような推定が可能である。降雨時になれば盛土の上部を地表水として流れる水もあるが、他方地表より滲透した水は地下水となり、あるいは谷中に湧水する地下水もあると考えられ、これらの地下水が谷地形の谷部に集中するであろう。更に、これらの地下水は地山の上面の盛土の下部のある範囲に集中するであろう。(中略)これらの地下水によつて盛土の下底面からある高さまでは、渇水時以外は滞水していたと考えられる。これらの地下水及び多雨時の急速な地下水流により、盛土の下底面及びその付近の状態は、盛土施工工事以後次第に変化したであろう。このような状態であつたとき、昭和四四年六月二八日午後二時二〇分から、その翌日の二九日午前一一時一五分ころまでに一三八ミリメートル(奥村組のデーター)の降雨によつて、その当時における限度以上の水分を吸収し、土粒子の分離が促進された結果流れ出し、崩壊性地滑りを起こしたものと判断される。」というに尽きるものである。原審第三回公判調書中の証人鎌田泰彦、同松本征夫の各供述部分をみても、右に要約した以上の理由は述べられていない。

そうすると、右各鑑定は(とりわけ後記田中鑑定及び小橋鑑定と対比するとき)なんら具体的かつ実証的な根拠をあげていないに等しいものであるから、その各結論の正確性はいずれも保しがたいものがあるといわなければならない。

残る伊勢田鑑定の要旨は次のとおりである。

本件崖崩壊地点の原地形は、急勾配で多少くぼみのある谷ともいえる地山である。谷の上部に墓地、道路並びに駐車場を建設するにあたりかなりの量の残土が生じ、盛土を行なつた理由は他にあつたにせよ、残つた土を谷部に捨て、一・五ないし三メートル程度の盛土を行なつている。法長は長く四〇メートル以上もあり、勾配も1:156と大きい。

かかる自然斜面の上に盛土を施工して築造した人工斜面は急勾配の場合、降雨特に集中豪雨による被害は少くない。

その主なる原因は次のようになる。

(1)  地形その他の制約のため、表土はぎ、段切り、排水工などの施工が疎かになり勝ちであり、締め固め不足も手伝つて降雨時に浸透した雨水は盛土中を透下し直ちに地山に達し、しかも到達した雨水は更に地山中を流下せずに急傾斜地山に集中流下するような状況になる。

すなわち、右盛土部分に関する雨水の透下速度は1.3~0.5cm/sec程度であり、これに対して地山の透水係数は9.0011cm/secで、これを同じ効果と考えると、盛土の方が数百倍以上も透下能力が大きいことになる。従つて、間断なく降つた雨水は盛土内を透下し、盛土と地山との境に貯留される状況になる。

(2)  本件崖法面の盛土内を透下した水量は、同法面に直接降つた雨量ばかりでなく、同法面上部の墓地一帯に降つた雨水が未舗装の道路々面や道路素堀の側溝を流下したうえ右法面に向かつて流下したかなりの量のものを含む。

(3)(イ)  本件崖崩壊地点は急傾斜地山であるが故に、盛土の施行については、土を上部から盛りこぼし、法の表面にあたる部分のみ土羽打ちを行なつたにすぎず、盛土の締め固めは殆ど行なわれていないのが実状であり、そのときの盛土の状態については、原審証人宮原市郎が供述するように、軟らかい畠地を歩くような状態で膝下まで足が埋まつたという状況にあつて、このように締め固め不足の土は透水性が高いばかりでなく、含水比が高くなるとせん断強度が著しく低下し、土の単位体積重量の増加も手伝つて、崩壊を早める。

(ロ)  実験の結果によつても、浸潤前線の進行速度を一〇〇センチメートルの平均で考えて1.02~5.41cm/分となり、一番小さい値1.02cm/分を選んだにせよ、一二時間で七・三メートルまで達することになる。また、初回より二回目の方が進行速度は低下することを考慮しても、一二時間連続降雨ということから雨水は盛土内を浸透し地山まで達することは十分生じえたものと判断される。

(ハ)  次に、降雨などにより土の含水比が高まり、間隙水圧が上昇した場合、土のせん断強度がどの程度低下するものか調べた結果、内部摩擦角の低下は生じないまでも粘着力は著しく低下することが分り、更に、斜面の安定計算を行なつた結果、降雨により土の含水比が高まれば不安定となつて行くことが分つた。

(ニ)  以上のことから、本件崖崩壊の原因は、元来十分締め固めて作られたような盛土でなく、いわば急傾斜地山に土捨場的に作られた盛土であつたため、降雨により雨水が盛土中を浸透し、土のせん断強度の低下が生じ、崩壊に至つたものと判断される。

しかして、右伊勢田鑑定に前記3の亀裂発生事実、同5ないし7の各事実を参酌すると、前記崩落原因に関する原判決の前示認定は一見これを是認しうるようにも思われる。

しかしながら、更に子細に検討すると、次に述べる理由で、右3、同5ないし7の各事実をもつて前記崩落原因の徴憑とすることはできず、伊勢田鑑定の結論部分は採用することができない。すなわち、

(一) 前記3の亀裂発生事実に関し、上段擁壁が本件事故の一因となつたかどうか、又は右亀裂の発生をもつて原判示のような崩落原因の徴憑とすることができるかどうかについて検討すると、原審で取り調べた原審鑑定人田中茂作成の鑑定書、田中茂作成の補充鑑定書と題する書面、当審で取り調べた同人作成の昭和五三年一二月付及び昭和五四年三月一三日付各鑑定書、証人田中茂の原審及び当審公判廷における各供述、同証人に対する原裁判所の尋問調書二通、当審第五、六回各公判調書中の同証人の供述部分(以下、以上を総称して「田中鑑定」という。)、並びに、原審で取り調べたその他の関係証拠によれば、上段擁壁自体の底部は地山の上部一メートル未満の位置にあつたけれども、右底部の下に高さ約六〇センチメートル、幅約七〇センチメートルにわたり栗石を敷きつめ、更にその底部には一本胴木を敷いていたので、少なくとも同擁壁両端は地山に達し、その中央部付近も殆ど地山についていたこと、昭和四二年四月七日ころ上段擁壁等に発生した前記亀裂は、同擁壁築造後初めての大雨であつた、同月一日から同月四日までの総雨量約一三四ミリに達する降雨の浸透によるものであるが、右擁壁に生じた亀裂は、頂部から基礎まで縦に貫通する態様のものではなく、壁体の高さの半ばより少し上の部位を横に通つていたものであつて、壁体の変位は「く」の字型を呈していた反面、壁体の前趾は基礎捨石内にめり込んではいなかつたことなどからみて、同擁壁の基礎は割合しつかりしたものであり、同擁壁背後の盛土が雨水の浸透を受けて鉛直方向に締まりを生ずると同時に同擁壁の方へ向かつても膨脹し、これを押した結果、右亀裂部位に大きな変位を生じたものであること、同擁壁は昭和四三年六月から同年七月にわたる総雨量約八四三ミリに達する豪雨を受けたにもかかわらず、崩壊を免れたものであつて、右降雨その他の降雨により擁壁背後の盛土は更に締まり、擁壁に及ぼす土圧は小さくなつたものであること、本件事故の際上段擁壁は積石の表面を上に向けて落下していることからみて、土壊の崩落とともに崩落したものであつて、土塊より先に倒壊したものではないことが認められる。

従つて、上段擁壁が本件事故の一因となつたと考えることはできず、また、前記亀裂の発生をもつて原判示のような崩落原因の徴憑とすることもできない。

(二) 前記5の出水状況をもつて原判示のような崩落原因の徴憑とすることができるかどうかについて検討すると、田中鑑定並びに原審で取り調べたその他の関係証拠によれば、本件崖斜面に相当量の降雨があるときは、斜面上をかなりの表流水が流下し、この表流水は斜面の裾近くになるほど集水面積の増加に伴い水量を増加させるものであり、前叙のように下段擁壁背後の栗石層はその上面が地面近くまで達していたので、表流水のかなりのものがこの層内に侵入し、これが積石の間から噴出するときは、土粒子を混じているため、濁水状、噴流状となることもあつたこと、本件崖付近には前記宅地造成以前から水路が存在し、峯恭輔方南側の下段擁壁の西隅は同人方西隣の宮原市郎方宅地よりも約一メートル低く、宮原市郎方宅地の水路は下段擁壁北側に沿い峯恭輔方の方へ向かつて流れ、同人方西隅で垂直に落下し、右両名方宅地の間を通つて道路側溝に流れる構造になつていたため、昭和四三年六月末ころの長雨の際には峯恭輔方南側の下段擁壁の西隅では、右水路及びその周辺の水が同人方南側の同擁壁の裏へ回り、そこへ貯留されたものが積石の間から湧出していたことが認められる。

従つて、前記5の出水状況をもつて、原判示のような崩落原因の徴憑とすることはできない。

(三) 前記6、7の各事実をもつて原判示のような崩落原因の徴憑とすることができるかどうか、及び伊勢田鑑定の理由(1)について検討すると、田中鑑定並びに原審で取り調べたその他の関係証拠によれば、

(1) 一般に崖の降雨に起因する崩壊は、雨水がその表面から鉛直浸透して、その浸潤前線が表層の浸透能に比して小さい層との境界面に達し、その上に貯留され始めると同時に後者の層内へも浸透していくようになるまで、降雨がある程度以上の強度をもつて継続していることが必要であり、更に、右の貯留される浸透水の水位が上昇して、地表面に顔を出し、いわゆる浸出線が出現するに至るまで右のような降雨が継続することにより崖の崩壊が発生するのが、その機構の重要な点であるが、しかしこのような降雨条件はそう簡単には充たされないこと、

(2) 本件崖斜面に対する降雨量は、昭和四三年六月二七日から同年七月二日までのものが四二四ミリに達し(すなわち、同年六月二七日二九ミリ、同月二八日一〇四ミリ、同月二九日六四ミリ、同月三〇日一二六ミリ、同年七月一日四六ミリ、同月二日五五ミリ)、昭和四四年には六月二六日午前零時五〇分ころから同月二八日午後二時二〇分ころまで降雨が中断し、その後同時刻から同日午後九時三〇分ころまでは小雨程度で、同時刻から急に大雨となり翌二九日午前一一時ころまでに一五八ミリを記録したにすぎなかつたのに、本件崖斜面は昭和四三年には崩壊せず、かえつて昭和四四年六月二九日午前一一時ころ崩壊するに至つたこと、

(3) 昭和四四年六月二八日午後二時二〇分ころ(なお、原審鑑定人田中茂作成の鑑定書二頁四行目に「二二時」とある部分、及び同書一五頁一一行目に「二二時」とある部分はいずれも「一四時二〇分ころ」の誤記と認める。)から本件崖の崩壊した同月二九日午前一一時ころに至るまでの、前記長崎海洋気象台長作成の回答書による合計雨量約一一七・五ミリ(ちなみに、前叙のように、長崎市滑石町における右時間帯の降雨量記録は約一五八ミリであるが、田中鑑定は同市南山手町五における降雨量を記録した右回答書に依拠しているので、暫くこれによる。)のうち約五〇ミリの降雨量の鉛直浸透により、この降雨の開始直前の盛土の飽和度を七〇パーセントとし、この降雨を受けた結果、それが一〇〇パーセントになつたものとし、更にこのときの盛土の間隙率を四〇パーセントであつたとすると、五〇ミリの浸透(その他は右斜面表面を流れる)により飽和状態となつた地表からの盛土の深さは5cm×1/(1.00-0.70)×0.40≒42cmであること、斜面の裾に近づくと、表流水が集まつてくるので、浸透水量も増加するから、上述の深さは右値よりも大きくなり、60cm程度に達すること、右の約一一七・五ミリ、七〇パーセント、一〇〇パーセント、四〇パーセントは、それぞれ一五八ミリ、六〇パーセント、九十数パーセント、四五パーセントであつたとしても、右値はそれほど大きく変わるものではなく、また、実際の本件盛土の右降雨直前の飽和度、同降雨浸透後到達した飽和度、間隙率は右の範囲とそれほどの径庭はなかつたこと、そして、このような値は、本件事故後の昭和四六年に本件斜面につき後記鉛直ボーリングをした際測定した本件盛土の透水係数である1.0×10-3cm/sec=3.6cm/hrによれば、約一三時間半(すなわち、概算のため小雨が降つていた時間帯を消去し、大雨が降り始めた前記六月二八日午後九時三〇分ころから翌二九日午前一一時ころまで)で浸潤前線の進行距離は約四九ないし六〇センチメートルとなることとほぼ一致していること(なお、正確に水が地中を降りて行く速度を算出するためには、これに透水勾配を乗じなければならないけれども、それは降雨後約一、二時間すると、一に近くなるので、約一三時間半降り続いた降雨について概算するため、これを省略する。)、ところが、本件地山斜面に施工した本件盛土の厚さは約一・五ないし三・五メートルであつたこと(従つて、前記約一五八ミリの降雨が右盛土下の地山まで達したとは考えられないこと)、

(4) 昭和四六年一一月一一日川崎市生田緑地で発生したローム斜面崩壊実験事故の崩壊を生じた斜面地内の人工降雨による崩壊に至るまでの同月九日から同月一一日までの三日間にわたる総雨量は、西部では平均七〇三ミリ、中央部では平均四八二ミリ、東部では平均五一五ミリであつたこと、

(5) 伊勢田哲也作成の補充鑑定書七頁下から二、三行目には、「盛土部分に関して先に述べた別添補充試験報告にある雨水の透下速度を考えるとき、1.3~0.5cm/sec程度であり」とあるが、そのうちの「1.3~0.5cm/sec」とある部分は、右補充鑑定書五頁下から五行目の記載及び証人伊勢田哲也の原審第三〇回公判期日における供述(八三ないし八七項)に照らし、「1.3~0.5cm/分」の誤記であることが明らかであり、これを秒単位に換算すれば、「0.0216~0.00833cm/sec」となるから、右の「1.3~0.5cm/sec」をもつて、地山の透水係数0.0011cm/secと比較した伊勢田鑑定の鑑定理由は前提を欠いて失当であること、

(6) 本件崖の地山を構成している地盤は、上部より鉛直下方に、崩積土の礫混りローム、風化岩、凝灰角礫岩の層序となつていること、崩積土は礫及び転石混りの粘土状で、粘土部分は非常に軟く、崩積土は一般に凝灰角礫岩の風化物からなり、含水比の増加により軟弱化しやすいこと、風化岩は凝灰角礫岩が母岩で、礫混り粘土状となつていること、凝灰角礫岩は軟い凝灰岩中に安山岩角礫を含む集塊岩様であつて、亀裂もかなり発達していること、右崖表層の約三・五ないし四・五メートルの盛土もしくは堆積土の土層の透水係数は、約1.1~7.6×10-3cm/secであり、その下層約四ないし一五メートルのそれは、約2.7×10-5~7.1×10-4cm/secであること、更にこれより下層については、降雨水の地表面からの浸透のみを考えるときは殆ど問題になることはないと考えられること、また、四メートル以下の下層土の透水係数が大きいほど、浸透水は表層土中に滞水せず、従つて、地下水位の上昇を生じず、下層に浸透していくこと、ところで、下層土の透水係数の最大値は7.1×10-4cm/secであるから、これは25.6mm/hr(=7.1×10-4cm×3600sec=2.56cm/hrの降雨強度までの雨は、その下層に浸透してしまうことを意味することが認められる。

従つて、本件地山は決して不透水のものではなく、以上のような本件事故時の本件崖斜面の土層構造と降雨条件からみて、雨水浸透のみで、右表層土部分の崩壊が発生したと推定することはできず、右崩壊発生にはより深層からの地下水位上昇の助けが必要であつたといわざるをえない。

(四) 伊勢田鑑定の理由(2)について検討すると、田中鑑定並びに原審で取り調べたその他の関係証拠によれば、昭和四一年八月一〇日に前記墓地造成工事を竣工した際、同墓地表面は地山が露出するまで切り取り、同墓地には縦横に多数のコンクリートU字溝を設け、これには集水された排水が中央の大きな溝に集水されて、本件崖斜面とは別方面の道路下に排水されるよう勾配がつけられ、同斜面の法肩部分には多量の土を盛つて、前記墓地、駐車場及び取付道路に降つた雨が同斜面(法面)に流れることなく、墓地の方に流れ、墓地の側溝を伝わつて他に流れるように工作が施してあつたことが認められる。

従つて、右墓地、駐車場及び取付道路の降雨水は全部右排水溝を通じて本件斜面外へ排出されたと考えられるので、伊勢田鑑定の理由(2)を是認することはできない。

(五) 伊勢田鑑定の理由(3)(イ)について検討すると、田中鑑定並びに原審で取り調べたその他の関係証拠によれば、

(1) 昭和四一年八月一〇日に本件崖を築造した際、同斜面に生育していた立木はすべて伐採(根はそのまま)して焼き払い、同斜面にブルドーザーで押し流した盛土は、法尻から法面中間部くらいまではブルドーザーで転圧したほか、土羽板(大きな板に棒をつけたもの)あるいは平らなスコツプを裏にしたもので叩いたり、人力で踏み固めるなどして締め固めたうえ、これに芝及びつつじを植えていたこと、

(2) 伊勢田鑑定が前提とする原審第七回公判調書中の証人宮原市郎の供述内容によれば、本件斜面の盛土は、いわば田植時における田の土のような状態にあつたこととなり、そうだとすれば、大雨が降れば、あたかも溶岩が流れるようにどろどろと流れ落ちると思われるところ、他方、一般に斜面盛土の透水係数は、右盛土直後の時点に比し雨露を受けて数年間経過した後では一〇倍位減少するものであること、並びに前叙のように、本件崖斜面盛土は昭和四一年八月一〇日に竣工後本件事故の発生した昭和四四年六月二九日までの間の降雨により締め固められていたこと、殊に同斜面は昭和四三年六月及び七月の降雨総量八四三ミリの雨によつて崩落することなく、これに耐えることができたこと、しかも右のような昭和四三年六月及び同年七月の降雨により、事故当時の斜面盛土の方がその前年のそれよりもよく締まり、かつ透水性が何分の一かに減少していたことが認められる。

従つて、原審証人宮原市郎の前記供述内容やこれを前提とする伊勢田鑑定理由(3)(イ)を採用することはできない。

(六) 伊勢田鑑定理由(3)(ロ)ないし(ニ)について検討すると、田中鑑定、並びに当審で取り調べた鑑定人小橋澄治作成の鑑定書(付属資料を含む)、証人小橋澄治の当審公判廷における供述(以下、以上を総称して「小橋鑑定」という。)、及び伊勢田鑑定によれば、伊勢田鑑定人は、内径五〇ミリメートル、長さ一メートルの透明なアクリル筒に本件現場付近から採取した土を詰めて突き固め、上部より水を点滴してその浸透速度を実測実験しているのであるが、その給水量は本件事故発生当時の降雨量の一〇倍以上に達していること、同実験は、給水量の全部が地中に浸透して地表面に表面流は全く生じないという条件で行なわれているが、実際に事故当時の降雨が全部本件崖斜面の地中に浸透することはないこと、右実験に使用した試験土と事故当時の本件盛土との間に透水性において相似性があることが確かめられた形跡がないことなど、同実験に関し実験現象と原型現象(元の自然現象)との相似則が実験によつて確かめられた事跡がないことが認められる。

そのうえ、前叙のように、本件地山は決して不透水のものではないのであるから、仮に雨水が本件盛土内に鉛直浸透して下の地山に達したとしても、それは更にその下の地山内へもかなり容易に浸透するため、本件崖斜面に直接降つた雨が右盛土内に地下水位の上昇を生じさせたとは考えられないし、ひいて右盛土内に間隙水圧が生じたとも思われない。

従つて、右鑑定理由(3)(ロ)ないし(ニ)の正確性も保しがたいものがあるといわなければならない。

(七) かえつて、田中鑑定、小橋鑑定及び当裁判所の証人東島房次に対する尋問調書によれば、

(1) 田中鑑定人が、本件事故後本件崖付近について、現地における眺望、空中写真、地形図等を基に、谷線や地形の鞍部の存在する位置、湿り気を好む植物である竹の集落の位置、過去に崩壊した崖の位置、湧水のある位置、擁壁に大きな亀裂が生じている位置を定め、地形図にこれらを表示し、それらを結ぶ断裂線(破砕帯などの線)を描くと、その数本が本件斜面を通つていたこと、昭和四六年一一月に千代田工業株式会社が長崎県住宅供給公社から依頼を受け、田中鑑定人の描いた本件斜面中の右断裂線上に、水平、鉛直とも各約四〇メートルのボーリングを施行し、それぞれのコアーを採取したところ、いずれも亀裂の発達が認められたこと、昭和五三年一月から同年五月にわたり長崎県土木部監理課が右田中と協議のうえ、右断裂線上において三か所の鉛直ボーリングを各約三〇メートルにわたり施行し、それぞれのコアーを採取したところ、亀裂の発達が認められたばかりでなく、昭和五三年四月から昭和五四年三月一日まで右各ボーリング孔を利用し、地下水位の自記水位計を用いて、地下水位の変動観測を行なつたところ、右各ボーリング孔にはそれぞれ地下水が存在し、日雨量が二五ミリをこえると右地下水は上昇し、それをこえる雨量が増えると、これに敏感に即応して同地下水位が急速かつ大幅に上昇し、地下水位の上昇量は降雨量の約一二〇倍にも及び、降雨がやむと当初同水位は急速に降下するが、次第に降下速度は遅くなつたこと、右観測期間中の地下水位の最低値は、No.1孔が地表面下約二八メートル、No.2孔が同約一九メートル、No.3孔が同約二五メートルであり、その最高値は、No.1孔が同約一三メートル、No.2孔が同約六メートル、No.3孔が同約四メートルであつたこと

(2) 月間降雨量一〇〇ミリ以下の降雨は地下水位の上昇には殆ど寄与するところはないが、昭和四二年一二月から昭和四三年五月までの間の本件崖斜面の降雨量総計は五九二ミリであり、その間月間降雨量一〇〇ミリをこえる月は二か月のみであつたのに対し、昭和四三年一二月から昭和四四年五月までの間の右降雨量総計は七一六・五ミリであり、その間月間降雨量一〇〇ミリをこえる月は五か月もあつたこと、昭和四三年六月の月間降雨量は四四四ミリ、昭和四四年六月のそれは四六九ミリであつたこと、昭和四三年六月も昭和四四年六月も二八日から二九日にかけて本格降雨があつたが、右各月の一日からそれまでの累積降雨量は昭和四四年の方(二〇五ミリ)が昭和四三年(一五三ミリ)より五二ミリ多かつたこと、月間降雨量一〇〇ミリ以下のもので、地下水位に影響を及ぼすところの、本格降雨(豪雨)に先行する降雨は約一五日間のものであるが、右各本格降雨について右先行期間中の降雨量は、昭和四三年が八〇ミリであつたのに対し、昭和四四年は一〇八ミリであつたこと、

(3) 右地下水位の変動観測、並びに、昭和四二年一二月から昭和四三年六月まで、昭和四三年一二月から昭和四四年六月二九日午前一一時ころまで、昭和五二年一二月から昭和五四年三月一日までの本件斜面の降雨量とを対照すると、昭和四四年六月二九日の本件崖崩壊時の右地下水位は昭和四三年六月における同斜面の最高地下水位よりも約一・数メートル高かつたと推定されること、

(4) 本件事故後本件崖斜面の復旧工事をした際、同斜面には盛土を施さず、不陸整正をして芝を植えつけ、集水溝を設けたのみであつたが、同斜面は昭和五七年七月の豪雨によりまた崩落したこと、同年八月一七日田中茂が同斜面を見分したところ、同斜面には小さな孔が多数あいていて、それらの孔から地下水に溶けて鉄が地下水とともに地上に噴き出し、その鉄が地上の酸素にあい酸化鉄となつて沈澱し、赤茶けた色を呈している状態が顕著に見られたこと

が認められる。

以上の事実、殊に、前叙のように前記ボーリング孔の地下水面が降雨状況に敏感に反応して上下している事実からみて当該斜面の基岩に破砕帯もしくはそれに類した岩の割れ目状の水みちが存在し、そこに「連通管の原理」であるかどうかは別として、降雨条件に支配的に影響され変化する地下水脈が存在することは否定できない。

そして、右ボーリング孔の水位変動をみると、大雨時における地下水位上昇と降雨との時間的ずれが非常に少ないことは、低い透水係数をもつ基岩の状況からみて、地下水の起源が本件崖斜面上に降つた浸透水によるものではなく、別の個所から流れ込む地下水であること、地下水位上昇量が降雨量の約一二〇倍にも及ぶことは、広い範囲の水が集中した地下水脈(例えば、前記崖から離れ、かつその標高よりも相当高い場所に、渓流などのように広い集水面積から豪雨が集まつてくる所が存在し、そこに水が容易に浸透しやすい破砕帯の部分や岩盤の水みちの一端が開口し、それらの他端の一つが右崖斜面に開口しているようなもの)であることを推定させる。

そうだとすると、本件崖の崩壊は同斜面の基岩中に降雨条件に従つて敏感にその水位が変動する地下水脈が存在していたため、本件事故時の大雨によつてその水位が急上昇し、基岩上にある盛土及び堆積物の層(表層土層)に達し、更に地表面より水位は高くなり、パイピング現象(地下水の上昇により表層土層が崩壊すること)による崩壊を生じたか、あるいは表層土の地表面に近い位置に達し、表層土(盛土部分)の密度が低いために、地下水面にある土のせん断抵抗力は土が飽和状態になるため、急激に小さくなり流動滑り的に崩壊したものと考えられるのである。

畢竟、伊勢田鑑定の前記結論はその根拠となるべき事実関係の把握ないし実験現象と原型現象との間の相似性において、証拠判断上採用しがたい節がある。しかも、右の点が本鑑定の主要な根拠に関するものであることを考慮すると、同鑑定は崖崩壊発生機構的所見として尊重さるべき諸点を含むものではあるが、本件崖崩落原因に関する前示結論部分は、これを採用することができないものである。

しかして、被告人両名において本件崖斜面以外の個所から流れ込む、広い範囲の水が集中した地下水脈中の地下水位が本件崖斜面で前示のように上昇することを当時予見することができたことを認定するにたりる証拠もない。

そうすると、本件事故に関し原判示のような崖の崩落原因(自然的因果関係)は認めがたく、結局原判決は証拠の価値判断を誤り、本件崖の崩落原因につき事実を誤認しているものというほかなく、この場合被告人両名の各行為と本件事故との間の因果関係の存否、並びに被告人両名の各注意義務違反の存否について論ずるまでもなく、被告人両名の各責任はいずれも否定されるものであるから、原判決はその余の控訴趣意について判断するまでもなく破棄を免れない。論旨は理由がある。

それで、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書に従い、更に次のように判決する。

本件公訴事実は前示のとおりであるが、前説示のとおり、本件被告事件については犯罪の証明がないことに帰するので、刑訴法四〇四条、三三六条後段に従い被告人両名に対し無罪の言渡しをすることとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 山本茂 池田憲義 松尾家臣)

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